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2007年11月 9日 (金)

No.18 彦根城

投稿 ボーイ隊

 城の形式は連郭式平山城。城の北側には玄宮園楽々園(国指定名勝)という大名庭園が配されている。多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城であった。
 
明治6年(1873)の廃城令で数多くの城が失われる中、一説では大隈重信の上奏により明治11年(1878)に破却を免れたとされる。国宝の天守を筆頭に、数多くのなどが現存し国の重要文化財に指定されている。重要文化財には全国的に珍しい馬屋も含まれる。天守が昭和6年(1931)に国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)指定、昭和27年(1952)に文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。
 姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、昭和26年(195169日に国の特別史跡に指定された。これは姫路城の指定よりも5年早い。また、彦根市市制50周年の昭和62年(1987)には御殿が復元され「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されている。 また、外堀には水戸市から贈られた複数の黒鳥が飼育され、観客からのエサを求めて遊泳している。
 『武士の一分』、『大奥』など数多くの映画ドラマのロケ地としても知られ、平成4年(1992)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されている。

歴史

 徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長5年(1600関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封じられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。しかし、三成の居城であったことを嫌い、城の縄張りとしては佐和山城城郭の方が数段優れていたにもかかわらず、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移そうと計画した。しかし、関ヶ原の際の戦傷が癒えず慶長7年(1602)死去した。
 直継が家督を継いだが幼少であったため、直政の遺臣が彼の遺志を継ぎ再検討の末、慶長8年(1603)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の建設を開始した。工事には公儀御奉行3名が付けられ7か国12大名(15大名の説もある)が手伝いを命じられる天下普請であった。長浜城・佐和山城・大津城など近隣の城の遺材を転用した。特に天守は 4層の大津城天守を3層に縮小して移築したといわれている(天守がややずんぐりしているのはそのためであるという)。
 時代劇の撮影等でよく使われて有名な天秤櫓は長浜城から移築したといわれている(内藤信成時代の長浜城大手門)。その天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡ったつきあたりにあたる、長い多聞の左右の端に22階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
 慶長11年(1606)二期までの工事が完了し、慶長12年の天守完成と同時に直継が入城した。元和2年(1616)彦根藩のみの手により第三期工事が開始された。この時に御殿が建造され、元和8年(1622)全ての工事が完了し彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね最終的に寛永10年(1633)には譜代最高となる35万石の大封を得るに至った。
 なお、筆頭家老木俣家は1万石を領しているが、陣屋はもたず、月20日は西の丸三重櫓で執務をおこなっていた。これは、既に城が徳川統治の太平の下、軍事施設としての用を終え、藩のシンボル的存在としての存在に城が替わった為であり、西国への備えの彦根城も各藩組織の管轄で天守以下倉庫等として徳川時代の大半を使用されることになる。
 嘉永7年(1854)に天秤櫓の大修理が行われ、その際石垣が半分積み直された。向かって右手側が築城当初からの「ごぼう積み」、左側が新たに積み直された「落し積み」となっている。
 幕末
の大老として有名な井伊直弼は、藩主となるまでの不遇の青春時代をこの城下で過ごしてた。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎」として現存している(昭和60年度から6年間にわたって修復)。

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